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沖縄自治研究会

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下河辺オーラル・ヒストリー 上

報告1『下河辺オーラル・ヒストリー』復帰前後の沖縄開発体制の確立から代理署名訴訟問題まで)
2004年5月8日(土)
早稲田大学大学院公共経営研究科教授 江上 能義 

○江上能義  はじめに皆さん方に、資料のご確認をお願いします。ちょっと私のほうの手違いで資料の配布が混乱してしまって、島袋純さんにもご迷惑をかけて申しわけありません。

 一度に沖縄自治州論の資料も下河辺オーラルの資料も配りました。沖縄自治州論も資料として参考になるんですけれども、私が意図する本来の3つの論文とは違うのが皆さん方に回ってしまって、今、純さんにお願いして3本のコピーを手配してもらうようにしました。

 ただ、いま皆さん方に間違って配布した宮里政玄先生と外間正四郎さんの論説も、非常におもしろい内容ですので、ついでに読んでいたければ幸いだと思います。

 それで、私が今からお話するテーマの資料は、私の論稿である「『下河辺メモ』―“沖縄問題を解決するために”」という3枚綴りのコピーと、それから、3月4日から日付が入っているこの日付表の1枚ですね。

 それから、「沖縄問題を解決するために(メモ)」と書いてある3枚綴りのものですね。

そして、1996年9月に大田知事が代理署名を応諾して国と沖縄県が和解しますがその後、橋本首相が「沖縄問題についての内閣総理大臣談話」という形で沖縄問題について話します。皆さんもご記憶にあると思うんですけれども、そのコピーが1部、入っています。

それと、もうひとつ、「21世紀の人と国土」が表紙のペーパーも1部、入っています。それでは話を始めさせていただきます。

 ご存知のように、刷り上ったばかりの沖縄自治研究会の報告書 ナンバー4、『沖縄の自治の新たな可能性』に、下河辺さんのオーラル・ヒストリーを収録させていただきました。この下河辺オーラルにまつわるお話をしたいと思います。

 下河辺さんに聞き取り調査することになったのは、偶然的ないきさつがありました。私は去年の4月から早稲田大学のほうに移りまして、公共政策研究科という専門職大学院で講義や演習を担当しています。

 比較政治学や行政学をこれまで専門としていた関係から、開発行政学を担当することになりました。開発行政学とは、一口にいって、ODAとか発展途上国の政治や行政などをカバーする研究分野です。

 だからいま、開発行政の講義と演習を担当していますが、そのほかの担当科目はこちらから要望できました。そこで私は沖縄にずっと長い間、住んでいたので、沖縄に関連するような科目を持ちたいと思いまして、現在、地域政策論も担当しています。

 なぜ地域政策論を希望したかというと、沖縄に1977年から25年余り住んでいた間、沖縄の地域振興の展開を沖縄の現地からずっと見てきたわけです。それで東京に行くんだったら、逆に今度は日本政府はどのような考え方で沖縄の地域振興策を考案し、実施してきたのか、この機会に把握してみたいと考えました。

 そして、沖縄と東京の両方の視点からの考察をつなぎ合わせると、これまでの沖縄の地域政策というのがより見えてくるのではないかと考えて講義を持つことになり、そのための調査研究も行なったわけです。琉球大学での研究が随分、役に立ちまして、それで昨年の地域政策論の講義は、半分が日本の国土政策論、要するに第2次大戦後から今日にいたるまで、日本政府が全国の地域開発をどういうふうに考え、実施してきたのか、という話と、あと半分は沖縄の復帰後の振興開発がとくに日本政府を中心としてどのように作成され、展開されて、今どういう状況にあるかということを私が話して、それらについて受講する大学院たちと討論するというような形になっています。

 ご存知のように、今、日本本土は沖縄ブームの真最中です。沖縄ブームというのを私はあまり知らなかったんですけど、また実際、沖縄ブームとか言われても、沖縄だけが言う沖縄ブームではないかなと疑っていました。

 そうしたら、東京に行ってみると本当に沖縄ブームなんですね。沖縄で論文を書きたいという早稲田の学生がかなりいるんですね。昔だったらよっぽどの変わり者だったと思うんですけれども、今は沖縄について真剣に論文を書きたいという学生が次々に私の研究室をたずねてきます。私も20年以上東京にいなかったもので東京のことはよくわからなくなっていますが、東京の沖縄への関心度や知識は相当、変化したことを感じます。
以前だったら沖縄問題は即、基地問題だったんですけれども、今は沖縄問題の対象が非常に多彩になっていまして、やっぱりライフスタイルの問題とか、文化や芸能の問題とか、いろいろな問題でアプローチしようとしているんですね。

 今、私のところで修士論文を書こうとしている山口君は、沖縄の郷友会を研究しようとしています。沖縄の郷友会研究を通して、沖縄の人々特有の人的ネットワークというのを解明しようとしている。これもなかなかおもしろいテーマだなと思います。資料がなかなか集まらないというので、私もできるだけ沖縄から資料を持っていって、沖縄の知人にも協力を依頼しています。この山口君はこれから沖縄の新聞社の入社試験を受ける気なので、すでに中京テレビに受かっているのに、その中京テレビを断っちゃった。もったいない、何てことを(笑)。どうしても沖縄で就職したいと言うんですね。沖縄も就職事情が困難な状況にあるので、では沖縄で就職しなさいとはとても言えないんですけれども、しかし沖縄で就職できなかったら、この学生は本当にプー太郎になってしまうんです。

そのほかにも、どうしても沖縄の新聞社に就職したいので、それで沖縄についての卒業論文を書きたいといって私の研究室にやってきた学生もいますし。琉球新報の記者のみなさんは誰だか、もうわかっているでしょうが(笑)。 そういうわけで、東京の学生たちは沖縄のことに興味を持って聞いてくれますし、非常にやりがいがあります。十数年前だったら、沖縄の問題を東京で話してもほとんど関心がなかったですね。私は、早稲田大学のOBの会合で、「沖縄で暮らした十年」ということで1990年頃に一度、話したことあります。朝日新聞とか読売新聞などの記者の人たちもいましたし、会社に勤めている人とか20名くらいに、このテーマで話したときの反応はさっぱりでしたね。何で沖縄、沖縄、と言うんだという感じで。沖縄への理解度も低かったんです。

 最近、早稲田大学で話してみると、学生たちは私が予想した以上に沖縄のことを知っていて、あまり予備知識をいろいろ解説しなくても理解できるようになってきている。 それは、情報社会が進展して、情報がいろいろインターネット等でとれるようになったということもあるでしょうけれども、それと同時に沖縄についての関心が、今まで基地にしかなかった関心が、沖縄の文化とか社会とか人間関係とか、そういったものにまで理解が深まってきているということでしょう。

 私は1989年に、いわゆる琉球大学の内地研修、本土への研修で早稲田大学に半年間滞在したときに、読売新聞の友達から何か書いてくれと頼まれました。私はそのときにもちろん沖縄のことを書いたんですけれども、「もうひとつの日本」というテーマで、日本の中で沖縄というのは非常に固有の文化とか考え方を持っていて、もうひとつの日本、そういうのもいいじゃないかというような書き方をしたんです。

 私がその当時、書いた、日本本土にはない沖縄固有の文化とか考え方とか暮らしというものにいまの本土の若い人たちが非常に関心を示し始めている。それは日本自体が、戦後においてずっと一生懸命、経済発展を目指して頑張ってきて、そして今行き詰まって、振り向いたら沖縄というのは経済発展には乗りそこなっているけれども、しかし、それでもそういう自分たちの文化とか暮らしとか大事にしながらマイペースで生きているという生き方に、ひょっとしたらそちらのほうがいいんじゃなかろうかというような、かつてはなかったような、いわゆる単眼的なものの見方に終始していたのが、今の若者たちがもっと複眼的になって、そこが沖縄に注目する一つの理由になっているのかなという気がします。これは感想です。
 


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